昭和50年04月09日 朝の御理解



  御神訓 一、「信心する人の真の神徳を知らぬこと。」
      一、「欲得にふけりて身を苦しむることなかれ。」

 信心させて頂く者が、真の神徳を知らぬ事と仰る。真の神徳がわからせて頂いたら、欲得にふける事もなかろう。身を苦しむる事もないと思うです。皆が御神徳と言う事は、神様の御働きです。又は大きく言えば「成すと言え成し得る条件恩恵のなくば成し得ず何一つとして」と、教主様が教えておられる恩恵の事です。私共はこうして健康でおるという事も、神様の御恩恵です。食べ物でも神様の御恩恵の現れです。それに健康で無かったり食べるに食が無かったり、人間の幸福の条件が足ろうていない。
 あれが足りない是がないと言う様な、それは御恩恵を御恩恵と感ずいていないからです。御神徳の中に生かされてあるという喜びがないからです。それに対する神恩報謝の生活をしないから幸福の条件から離れて行くのです。そういう意味に於いての御神徳御神徳の中にあるのですから、御神徳を悟り解らせて頂いたらそれこそ有難いものばっかり、神恩報謝の心が自ずと湧いてくる。そこにはわざわざ欲を言わんでも得を言わんでも。本当に幸せな世界におかげを頂くのですから。
 欲得を言うちゃ馬鹿らしい事になるです。神徳が解らんから欲得を言わなきゃならんのです。それに身を苦しめなければならんのです。それにただ神様からは都合の良い、ただ我情我欲を満たして貰う事の為に、信心をしておると言う様な人達が沢山あるんです。真の神徳がわかったら我情我欲を言う事は要らん。欲得を言う事は要らん。にも拘らず自分の欲得の事。自分の我情我欲の事を願う事が、如何にも神様であり、信心であるように思うておる。そりゃお取次を頂いておかげを頂くのですから。
日田から井出さんという方が、お参りをしてきます。今度御本部参拝をして帰り道に、神様にお知らせを頂いた。それには春菊のお知らせを頂いておる。次にはほうれん草のお知らせを頂いた。春菊とほうれん草と言やおひたしなんかにして頂くお野菜ですね。その春菊とほうれん草を頂いて、どう言う事であろうかと翌日参ってから、お伺いをするんです。菊というものは、合楽の信心のシンボルの様に言われる花である。けれども春菊は食べるためのお野菜である。菊は菊でも食べる為の菊である。
 だから初めの間誰だって、まず自分の食べる事。食べる事と言う事は、おかげを頂くと言う事なんです。いうならば卑しい心を満たしてもらうという意味に頂いてもいいでしょう。私共は凡情がいっぱいですから、どうぞ商売が繁盛しますように、病気が治りますように。それは五つの願いの中にも実際はあるんですから。体の丈夫をお願い致します。家庭に不和のないが元ですから、どうぞ円満で行きますように。子孫繁昌家繁昌というふうに、それは願えと神様は仰るのですから願わせて頂くけれどもです。
 それが真の御用神願御成就の為に、繋がらせて頂く事の為に経済の事も、健康の事も人間関係の事も願うのですよ。だから神様との繋がりというものを、絶って自分の我情我欲の為に健康にならせて下さい。ためにお金を儲けさせて下さいというのではです。それは本当な事ではない。そういう信心からは欲得に苦しまなければなりません。欲得にふける事になります。金儲けさせて下さいばっかりじゃったら、欲得にふけっとるです。そういうおかげをよし頂いても、苦しみは絶えません。
 ですから同じ春菊でもだから井出さん、本当の菊の花のお知らせを頂くごつならにゃいかんばい。これは食べるとじゃないもん。自分の心の中に咲く花は、それこそ「弥陀より外に知る人ぞなし」と、お大師様か何か仰ったそうですけれども。銘々の信心の心の中にです。信心の歓びの花が咲く。これは神様と自分だけしか味わう事の出来ない境地というものが、有難いのでありそれを目指す。そういう有難い心に人間の幸せの条件の全てが足ろうて来る。そういう一つのシステムがあるんです天地の中には。
 自分の心の中にそういう信心の歓びがです。昨日指出の久保山さんが、毎朝ああしてお参りになります。村内で何事かどこか行く様な事がある時に、先生、私は申しました。私はそこの金光様に毎日お参りするとが何よりの楽しみ。どこに温泉に行きたいとも思わん、遊びに行きたいとも思わん。あれを食べたいこれを着たいとも思わん。そこの金光様に、いっちょ参ってみなさらんの、只有難いばっかり。とにかく日に一度お参りさせて頂いて、御祈念を頂いてお話を頂いておるとです。
 それこそ心の中にしびれるような喜びを頂く事が出来るち言う。とにかく人間が本当の幸と言う事は、この歓びを私は日に一遍でも一時でも味合わせて頂く事じゃなかじゃろうかとこの頃思うち。だから私はどこも行かんでんよか。そこの金光様に参りさえすりゃええち言うたというお届けがありました。御祈念を頂く御教えを頂いておるとです。どこから湧いてくるか解らん、それこそ身体がしびれる様な喜びを必ず感ずるという。その喜びを持って帰ってそれを一日中、持ち続ける事は出来ないけれども。
 一日の内に一時でもそういう喜びに浸れると言う事を、私は人間の本当の幸福と思う。そこの金光様に参ってみなさい。そりゃおかげを頂くそういうおかげを頂くと言うて、村内の方達にも話したというお届けがありました。二人で本当に素晴らしいかのうち言うてから言い合った事でした。その喜びを愈々育てて行くと言う事。菊の花。心の中に菊の花のような喜びの花が咲くと言う事なんです。それが楽しみなんだ。それにおかげを頂く。和賀心におかげがあると仰るのは、そう言う事なんだ。
 所がです信心の素人の時初めの間は、日田の井出さんじゃないけれども、信心の菊の花も咲いておるけれども、それは食べたいばっかり、卑しい心も満たしてもらいたいという、両方のおかげだ。いうならばおかげも願う我情我欲も願う。場合によっては本当に我情我欲の事も願うけれども、信心の喜びと、それが相まって信心が進んでいく事になるのです。初めてそういう心でわからせて頂くのが、信心する人の真の神徳を知らぬこと。その真の神徳の中に生かされて居る。
 又は真の神徳を目の当たりに見たり聞いたりする事が出来る。昨日の御理解はそこを頂きましたですね。この様にも間違いないそれこそ奇跡と言わなければおられない、不思議と言わなければおられない働きそのものが、御神徳の現れですだからそういう間違いのないお働きを頂いておる中に、右と願えば左となり左と願えば右となると言った様な事があるけれども。それは神様の御都合であると言う事を、昨日は中心に聞いて頂いたでしょう。いうならあの鼓の千鳥掛けそれを福岡の西原さんの例をとって話しました。
 十三日会と言や神様の願いが成就するという様な日にお参りをして、帰りにスピ-ド違反に引っ掛かった。それから間もなく検察庁からの呼び出しがあっておったけれども、体が不自由になられた。そこで病院に入院をされた。そこで病院から退院されておかげを頂いていかなければならない。嘉朗さんに連れて行って貰って、今日は行くごとしとるからというお願があった。
 そしてここからの帰り道に、またもやネズミ捕りに引っ掛かったという訳なんです。嘉朗さんの家内が電話をかけたら、お父さんがクーっとして、寝ついてしもうとるという様な事だったと言うて、その翌日嘉朗さんの家内がお届けをしております。やっぱそげんありますよね。それが当たり前です。おかげを頂きたいおかげを頂きたい。おかげを頂きたいからこそお参りしよるとに。
 十三日会の御用を頂いて帰りがけにスピ-ド違反に引っ掛かったり、又その後にその事で検察庁から呼び出しが来とるから、それに行かんならんから、お願いに来てから帰りにまたもや引っ掛かったのですから、本当に神様もござるとはござるじゃろうかという気がする訳です。けどもそういう時にこそ、信心は大事にしなければいけない。千鳥掛けのように鼓の千鳥掛け右と願えば左、左と願えば右と言う様な時こそです。それは氏子の真実の心。本当に神様をどがしこ思い願っておるか、又は力を与えて下さろう。
 鼓が千鳥掛けになって、ギュッと真ん中を締め上げた時に、初めてカンカン言う様な素晴らしい音が出るのです。本当の信心の歓びというものに、神様が触れさせたい一心がそういう右と願えは左となり、左と願えば右となると言った様な事はです。神様の御神徳の働きがあればこそ、そうなのです。だから有難いという境地を開いておる、御神徳を受けた方達は、皆そこを通ってきてるです。しかもそこを有難い勿体ないで通って来ておるです。だから御神徳に触れる事が出来るのです。
 そういう右と願えば左となると言った様な事も、沢山あるけれども、昨日は色んな例をもって、それこそ、目を見張る様なというか、びっくりするようなおかげ話を、二三させて貰いました。そういう働きが出来なさる神様が、そういうおかげも下さろ事も出来ない神様ではないのだけれども、それよりもっと大きな願いというものを掛けられればこそ、締め上げて、本当のよい音色を出させたいという神の願いを悟らせてもらう時に、それは困った事である、難儀なことであるけれども。
 言うなら叩かれりゃ痛いけれども、有り難いとお礼を申し上げる心が信心で言う真の心であります。そこから真の神徳をわかる。叩かれてそれが真の神徳であるとわかった時に、私は、本当の信心が段々身についてきよる時と思うですね。合楽に参りりゃ有難ずくめの事ばっかり続くと言った様な事じゃ決してないです。昨日も私四時の御祈念を終わって、ここへ座わらせて頂いておりましたら、それに滑り込む様にお参りしてきたのが、矢部の後藤さんでした。一人の婦人を導いて参って来てるのです。
 黒木の町に住んでおられる今度町会議員を、現在しておられるそうですが今度は又出られる。所が強力な相手が同じ村から小さい村なのに、同じ立候補者が出たわけです。それで後藤さんのお母さんの従兄弟にあたる方らしいのですけれども、永い間お付き合いもしてなかった。所が段々後藤さんがおかげを頂いて来るようになりましたから、この頃御仏事があった時に案内をしたら、それこそ自分だん子供の時しか知らじゃったという位。近所にも矢部と黒木ですから、あんまり離れていないでしょうけど。
 けども人間ちゃちいっと具合がようなってくると、お付き合いがしよらんでっちゃ始ってくるです。そういう親戚関係があって、金光様の信心の有難い事を、その時に一生懸命示現活動しておった。そしたら昨日頼って見えて、実はごげなふうじゃけんあんたが参りよる所の金光様にお願いして貰えんじゃろうかと言う事であった。はぁあんたはおかげ頂いたばい。あんたが五分遅かったなら、私は山に行っとるところじゃった。用意しとった山に行く為の。そりじゃけんほらおかげ頂くばい。
 そんならすぐ行こうと言うて、おかげを頂いた。来る道に佐田さん所に寄らせて頂いたら、丁度共励会があって、有難いお話を頂いて、そしてここへ来らせて頂いたら、私が言うた事もあんたどんがまあ五分遅かなら、私は裏に立っとる所じゃったち言うた事でした。おかげ頂くばい。そん時にそれこそ私が二十五年間、ここでお取次させて頂いておるけど、沢山のお神酒を頂いておるけれども、こんなお酒の銘柄のお供えは初めて。ここに二本入りの、丁度こっちを向けてから、ここにお供えが置いてあった。
 それが何と当選というお神酒じゃった。それを見せたからどげな素人でんです。はぁここの神様の御利益の有難か事にそれこそそれで感動しました。ちょいと見てご覧。こりゃあんたどんが来るちょっと前に、ある人がお供えに持って来たっじゃん。私もこげな銘柄の酒でんなんてん知らなかったが、当選と言うその、こりゃおかげ頂いたと言うてから帰りました、合楽の御神徳の現れです。また後藤さん、そういう止むに止まれん示現活動が、そういう風な形によって現れておるのです。素晴らしいと私は思いました。
 そういう目の辺り、御神徳の現れを見せて頂いたり、聞かせて頂いたりして、そういう働きの受けられる神様にお願いをして、右と願えば左とな、左と願えば右となる言う様な事が起こると言う事は、それはハッキリは解らないけれども、神様の御都合である事だけは、お互い分からにゃいかんのです。どういう御都合かと言うともっと力を与えて下さろう、もっと素晴らしいおかげを下さろうと言う御都合以外にないと言う事なんだ。そこが解った時に私は神様の、「真の神徳を知らぬ事。」
 と仰るが真の神徳がわかった人の頂き方だと思います。そういう御神徳が段々身にもついて来る、解りもする事になって参るのですから、欲得にふけりて身を苦しむると言う事はなくていいでしょうが。我情我欲を言わんでいいでしょうが。神様の喜んで頂く様な心を使って行けばよいでしょうが。真の神徳を知らぬから我情我欲にふけらなければならんのであり。真の神徳を知らんのだから自分の思う様にならぬと、おかげでない様な思い方をして、それこそ寝込まにゃならん様な事にもなって来るのです。
 だから真の神徳を本当に解ると同時に、自分の身にも頂いて行くと言う事の手立て。私は昨日毎月一回ずつ、ここの整理をするのです。ここに来るのはみんなお願いの手紙とお礼の手紙ばかりですが、その手紙のこんなに沢山お礼の手紙が来てますよ。みんなおかげの泉でおかげを頂いた人ばっかり、遠隔地の方ですから。ここの整理をしよりましたら、おかげの泉の何年前でしょうか。丁度ここの向こうの御造営が新館が出来るという、五年の祈念祭の正月に、私がお話をしておるのがおかげの泉になっとった。
 あら是は三十号たいと思うて一寸開いて、一寸とばっかり読みだしたら、本当にその間に色々な用件もあったんですけれども、そげな事なんかはとにかく私は読みふけりました。それこそ何べんも何べんも昔読んだ事でしょうし、ほんにこんな事もあったと思うて見てるんです。皆さんどうでしょうか。おかげの泉はそう言う様に以前のでも一遍読んでごらんなさい。また新たな感動でおかげを受ける事が出来ますよ。おかげの泉はいっぺん切りの読み捨ての本ではないと言う事が分ります。
 これは家の宝のようにして取っておかなければいけないご本だと言う事が分ります。その中に一銭もお金はない。その時分は御本部の御造営の時分でしたから、私は御造営の方に一生懸命になっておった。それで御信者さん方が五年の祈念祭に、どうでもと言うて二千万が三千万になり、三千万が五千万と言った様な計画でです。今から考えると小さい金額です何年前のここでは。
 けどもその時分としては五千万という金は、ここでは大金でした。それにです例えば住友銀行とか、九州相互と二軒から、それこそ借ってくれ借ってくれと言うて、二軒の銀行が来たと言う事も不思議ながらです。それをどういう目当があるならば、払えるかというぐらいに、お先の事は実はわからないのだけれども。その時分の総代さん幹部たちが、丁度元日の朝全部、幹部の方達が参って来ておりまた。朝の御祈念に。委員長初め正義さん、幹部の方達が参って来とった。
 夕べも遅く除夜祭ですから、除夜祭にもみんな参って来て一遍帰って、そして福岡辺りから、遠方からみんな参って来ておった。それは今年は御造営という大願があるので、その事の成就の事の為に、みんなが如何に打ち込んでおったかと言う事が分るです。そして朝の御祈念を頂いてまた帰ってから、元旦祭に出て来ておるという話をしておるんです。そういう新館の、西脇殿の御造営と言う事よりも、まず信心の造営と言う事に、皆が思いを寄せておったかと言う事が分るという話がしてあります。
 その内容に吉井の熊谷さんの事が出ております。除夜祭の朝親先生が今夜は玉串があるばいとおっしゃった。その日は何か手の離されない事があったから、その晩は御無礼しょと思いよったけれども、玉串があるならと言うて家を抜けつ隠れるようにして出て来て、除夜祭を頂いた所が、実際は男の総代さん方ばかりじゃったち言う。いわば嘘になった。けれども、熊谷さんが言っておられる事は、神様は嘘を言うてでも、本当の事をさせなさると喜んでおられる所が、お話の中に出ておるのです。
 それから除夜祭に参って来てからげな、若先生が熊谷さん明日の朝は、青年会が御本部参拝するから、お初穂が出とらんけん、早う持って来てもらわにゃち言わっしゃったそうです。それでその晩は帰ってからですから、ほとんど夜通しじゃったから、どうせ元旦祭におかげ頂かんならんけん、今朝だけは朝の御祈念を御無礼しようと思うとったげな。そしたら、若先生が朝から青年会が御本部参拝すると言われたから。
 こりゃお初穂どん遅うねぇちゃならんからと言うて寝らんようにして、お参りをしてからお初穂持って来たら、うんにゃ夕方からじゃったち言う。神様はそういうふうに若先生の頭の中を間違わせたり、親先生が嘘を言うてからでも、本当な事をさせなさる事が有難いというお届けがこの話の中に出ておる。私はここ辺の所を信心させて頂く者はわからにゃいかん。神様が如何に本当の事をさせようさせようとなさる働きがあっておるかと言う事なんです。それには真の神徳を解らせたいばっかりなんだ。
 そして私が予言のような事を言うておるです。五千万円もかかるここの家が出来る。そのお金が総代さん方に言っておる。あなた方が払うのじゃない。神様が払うて下さるのだから、心配は要らんという意味の事を言っておりましたが。その通り五年間で銀行とお約束をして、お払いをさせて頂くのが、二年半で済んでしもうておると言う事実なんです。私は自分の信心を、改めて読ませ頂いて、本当に感動しました。
 神様は自分の心を解らせたい。それはどう言う事かと言うとですね。御神意を体すると言う事は、神様の心が解ったお心に添うと言う事なんです。だから神様は自分の燃えるような滾るような、氏子かわいいという一念の心を、氏子に解らせたいという働きの中には、場合には痛い思いをさせてからでも嘘を言うてでも、間違わせてからでもそういう働きがある事を、あらかじめお互いが知っておかねばいけない。
 そして自分達にそう言う様な場合には、これ程のおかげの頂けれる神様だから、これは神様の御都合に違いはないと確信する事が出来る。寝つく事はいらんわけです。返って元気が出ると言う事になるのです。そしてそこの久保山さんじゃないけれどもです。日に一回、自分の心の中にです、今までかって味わうた事のない、信心しなければ頂けない所の、信心の歓びというものが、段々育って行くとするならばです。
 欲得にふける事もいらなければ、我が身をその為に苦しめる事も要らないほどしの、有難い世界に住む事が出来ると言う事で御座います。ここでは皆さんが、日々神様の一分一厘間違いないなぁという働きの中にあると言う事を確信して頂きたい。そして右と願って左であってもです。神様の一分一厘間違いのない働きが、そう現れておるんだと確信して頂きたいと思いますですね。
   どうぞ。